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牛に縁のある善光寺へ逃げ込んだ牛

奇しき運命の牛王麿 函館に残る牛のロマンス

大正14年1月1日 函館毎日新聞に目出度い牛年の記事として掲載される。

 函館には丑歳、最もふ応し、物語りがある今尚東川町の善光寺に保存されてある牛の頭骨は即ちこの物語の主人公である。古い函館在住の人々はアノ善光寺に飼はれてゐた牛王磨かと謂へば直思ひ出される筈である。師走は忙しい一日同寺を訪れ住職前田智囲師を訪ふと本堂内に案内して俳壇の一隅にまとめてある牛頭を引出て昔に戻って物語をして呉れた。
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 未だ善光寺別院が今の第二東川学校のあたりの砂白き海浜にあった頃である丁度明治三十二年二月六日の出来事冬の日足の短く臥牛山の一角に夕陽が沈みかけ大森の海岸から汐首崎まで紅々と陽の光りは雪の海岸を照らし漸く黄昏の迫った時折柄寺男が静かに晩鐘の勤めを終って堂の扉を締めかけた時一匹の大牛が苦しさうに雪白い海岸を一散に駈けて来た。
 堂の前まで来るヤアタフタと門内に飛び込み今締んとする堂の扉の隙間から晴らい本堂内陣へと息切つて入った、寺男は腰も抜かさんばかり驚いて住職智囲師の許に斯くに告げたり鎗の奇怪と不審に首を傾け住職が本堂に来た時には牛の目には露を宿し哀れな聾をあげて救ひを求むる如くであった。
 智囲師は哀れの牛を見て如何とも出来ず暫らく顔の面には当惑の色を浮かべるばかりであった斯くしてゐる中牛を逃がした屠殺場の牧夫の二人は息切つて馳せつけ薄暗い彿燈の下に救ひを求むる様に首を垂れた牛を無理に引連れ出して門前まで出したが  
 牛は何と感じたか俄に暴れ狂ひ一歩も門外には出やうとしなかったこの様を見た別院の前田智囲師は備に仕える身として何で見ぬ振りが出来やう飼主の昔時宝町丸み能登川巳之助氏方を訪れ斯くと告げ因縁の不可思議を諭つた氏は快く承諾し寺に牛を輿へることにした。
 此牛は本道日高浦川町の赤心会牧場より大阪に送輸すべく函館まで著した三頭の季牛の一頭である大阪行きの汽船に乗せるためウヰンチで巻き揚げ中に一頭は道悪く大将に墜落し流産した飼主は乳牛としての用を失ったので前能登川氏に屠殺用に売却したものだ、丁度六日の夕暮屠殺場へと二人の牧夫に曳かれ大森の海岸を俸はり、川口まで来た時に急に逃げ出し悲鳴を揚げ乍ら同寺まで来て救ひを乞うたものと判明した。 
 其後檀徒の慈悲に依り寺内の一遇に飼育され牛としては珍しい長寿を保ち二十一歳で此世から生を断つた大正六年一月十日牛の葬儀は盛大に挙行され火葬後骨は同寺に保存することにした。牛の同寺に飛び込んで二年目の三月の彼岸には檀徒達は牛を引いて信濃の善光寺へと参詣した。
 昔時善光寺の大勧進福恵大僧正はこの奇縁を聞いて牛王麿と名を授けたのである。

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屠殺場への途中ながら寺内へ飛び込んだ牛王麿

大正14年1月1日函館新聞記事
牛に牽かれて善光寺詣りといふ古諺を想出し葵町の善光寺に就て牛王麿のことを住職から親しく聞き、それから西川町消防本部前の丸み牛肉店主を尋ねて牛の駆込んだ前後のことを聞けば…

牛は確か牝牛の三才であったが、日高の浦川赤心社という牧場からでたの出あって、明治三十二年の二月、大阪へ送る途中函館へ入港した。別の船へ積み代へる為め荷役する際過って膵船の中へ轄落した。
 午はその時懐胎ニケ月であったが、韓がったのが素で流産するに至った、乳牛としての資格を失ったので大阪行を中止し賓町の星山笹村囲次郎さんの搾乳で暫くの間はそれでも乳を搾って居たそれから屠牛として西川町の丸み能馴肉店が笹村さんから買取って、愈屠所へ牽いて屠殺べく二月六日屠夫が遂ふて行った。
 牛は突然、お寺の本堂へ駆込んでピタリと内陣に入り阿弥陀如来の前に脆き両眼に涙を浮べ愁むが如く訴ふるが如くに悲鳴を揚げ屠夫の鞭を上げて如何に遂ひ立てしも僅ツカな動かばこそ、其庭の住職も不偶に思ひ善光寺は牛に因縁あることゆゑ何とかして屠殺することだけは中止させたいと思って居る中丸み能馴氏も亦信仰篤き人とて因縁の深いことであろうと遂にお寺へ寄付した。
 共産で境内へ牛堂を建立して飼養した、明治三十五年三月檀家信徒は信州善光寺へ参詣する為め行くことになり、牛にも本山詣でをさせやうといって遥々信州へ牽いて行った、そして牛は至る所多くの信仰家から随喜渇仰の涙を以て迎へられ大勧進
信州善光寺の大僧正から牛王麿と命名され大願上人からは三口五戒を授けられて蹄した時は大した騒ぎであった。
 明治三十六年には函館から小樽まで徒歩で行き結縁者に接合させたこともあった。それ以来善光寺を呼ぶに牛の善光寺、牛王様のお寺といふ様になった。
 牛王麿は大正六年一月廿一才を一期として命数重き眠るやうに死んでいった。お寺に居ること十九年、倦山(先代田中正右衛門)老は牛の像を措いて寺に寄進かし今も本堂中に掲げられてゐる、それから浮き世董の大家新井芳宗董伯の心血を注いで措いた牛の像も残ってゐる。
 それから剥製になった牛王麿頭蓋骨は今尚厨子に納められて寺の質物となって居る。(記事中に明治35年3月牛の本山詣でとあるが、当時の記念写真の中に明治34年3月と記されており、正しくは34年と考えられる。)
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